2010年3月、「社会運動はどうやって起こすか(原題:How to start a movement)」というプレゼンが注目を集めた。最初に始めたリーダーと同時に、最初に追随したフォロワーに着目し、別種のリーダーシップであると指摘して運動の始まりを約3分の解説だ。

自分が新しいことを始めなくとも、新しいことを始めた誰かをフォローすることでムーブメントの立役者になる。
この考えはパラダイムシフトを引き起こすと当時は思ったが、今はどうだろうか。
デレクの考えは別に新しいものではない。歴史上、似たような構造は多く見られた。
キリスト教もイスラム教も最初の伝道師が大きな役割を果たした。パウロやハディージャがいなければ今のような宗教勢力になっていなかっただろう。
古代ギリシャのソクラテスは生前、さほど人気のある哲学者ではなかったようだが、弟子のプラトンは彼の業績を伝えることに生涯をささげ、西洋哲学の基礎になった。
日本でも似たような構造はある。
本田宗一郎に藤澤武夫がいなければ、今のような本田技研工業はなかった。
スタジオ・ジブリも鈴木敏夫がいなければ「風の谷のナウシカ」も「魔女の宅急便」もなかった。
新選組に土方歳三がいなかったら後世に存在が残ったのかどうか。
最初の一人になるのは難しい。
既存の価値観では生じない価値をもたらそうとするのは、ただの努力ではどうしようもない。
持ってる人が持ち前の才気で炸裂するわけだ。
そのフォロワーの重要性をデレク・シヴァーズは説いた。
たった一人の変人を、最初の一人となって認める。
そのフォロワーこそ価値を広げる伝道師であり、流行の端緒のキーパーソンだ。
別に出資しろとか、結婚して支えろとかいう話ではない。
今ならクラファンの設立に尽力したり、SNSで最初の拡散者になるのだって立派なフォロワーだと思う。
リソースがあるなら出資してもよい。ないならないで別の手段はかつての世界では考えられないほど豊富だろう。
はてブでもこれを支持するような記事が週間人気ランキングに入った。
みんな、はてなブックマークしてくれ - nomolkのブログというのは、自分の記事にブクマしてくれという話では決してない。
最初の3ブクマのハードルが高くなっているが、そこを乗り越えるとブクマが自然と集まって人気エントリーになるという構造を解体している。
この「最初の3ブクマ」こそ、デレクのいう最初のフォロワーと同義だ。
そうならないのは、ただブクマするだけ、ただ「いいね」するだけでも責任を問われるという事実にばかり注目がいき、社会全体が及び腰になっているせいではないかと思う。
2024年2月、杉田水脈衆院議員(当時)は、SNSで中傷投稿に「いいね」を押したことが不法行為にあたるとして敗訴が確定した。
ここから急速にSNSの世界でも委縮が進んだのではないかと思う。いまだに下劣な投稿をしては開示請求の末に罪に問われる例が頻発するにせよ、トレンドとしては安易に最初の一人になることを抑止しているのではないか。
かつてはフォロワーが二桁、三桁のアカウントでも万バズすることがあったが、今ではそういう例は目にすることがない。
これも結局、内容より発信者が重視され、最初のフォロワーに対するハードルの高さが可視化されている事例だろう。
気安く支持できない問題はもう一つある。ノイズの広がりだ。
数年のブランクを経てXアカウントを駆動しているが、botか否かの判断が本当に難しい。認証はbotを否定する材料にならず、タイムラインをスクロールしていかないことには判断できない。
それっぽい発信が誰かのコピペだとしたらどうする? デマや陰謀論の片棒担ぎだと指弾される事態になったら?
このリスクを考えれば、最初のフォロワーになるハードルは一層高いものになっているのだろう。
だからといって、既存のオピニオンに任せていて自由が担保されるかどうかは不透明だ。常に議論にさらされ続けるSNSの世界では、いつも新しいアイデア、強固に主張を補完する発信が求められ続けているように思える。
ハードルは数年前より確実に高くなっているが、だからこそ選び抜く力が求められている。
オピニオンは言っては悪いが、新しいアイデアを押し上げる力は持たない。我田引水できると判断したとき、気まぐれにエンパワーすることはあっても、常時キュレーションするようなアンテナ感度はない。
それは古来よりキュレーションが過小評価され続け、しかしムーブメントに重要な役割を果たしてきた素地でもある。
あなたにも新しいリーダーシップを発揮するチャンスがある。それは以前よりハードルが高くなっているが、その価値は反比例して高くなっている。よくよく吟味して、プッシュする。それが世の中をよくする第一歩だ。