まず最初に。
差別はない方がいい。
性別、職業、学歴、宗教、性的指向などで全人格を勝手に評価、当人の存在が脅かされる。
こんなものはない方がいいに決まっている。
だが、国会議員が差別言動を繰り返しても格段の問題とはみなされず、当人も指摘されたところで開き直る。
差別を批判されても言論の自由を持ち出して居直る。
ここで考え方を変えた方がいいと思う。
差別の構造を解体、そこから差別をなくしていくための作法を考える。
差別はよくない。
なぜダメなのか。
ダメなのに差別が生じるのはなぜか。
そこを解体していこう。
まず 、人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)をみていこう。
第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
この条文を一つの例として差別を解体する材料とする。
条文における差別とは
「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身」を理由とした
「区別、排除、制限又は優先」であり
「政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」だという。
ほかの法律・条令における差別の定義もこれに近い。
もう少しかみ砕いて解釈すると
「人種や民族など固定的な属性」を理由とした
「区別、排除、制限又は優先」であり
「公共空間における人権と自由に対する妨害ないし脅威」だといえる。
これら差別はマスに対して差し向けられる。
在日コリアンや外国にルーツをもつ人たちに対する差別、外国人労働者に対する差別、これらは特定個人というよりも、特定の属性に対する誤解や偏見による攻撃だ。
なぜこれらが起こるのか。わたしは認知処理のショートカットだとみている。
「在日コリアンはスパイだ」
「外国人労働者は日本人の仕事を奪う」
こういった形で差別的言動が噴出するが、これらはその属性を持つ人たち一人一人が該当しているか否かをセットにしていない。
つまり在日コリアンの人たち一人ひとりを精査してスパイだと叫んでいるわけではないし、外国人労働者の一人一人が日本人労働者のポストを奪った事実を積み上げて主張しているわけでもない。
ただ、陰謀論やごく少数の事例などから全体を攻撃しているに過ぎない。
古代ギリシャでは自分たちの言語を解さない民族をバルバロイといって蔑んだ。
バルバロイとは言葉が通じないものという区別だったが、のちに蔑称となり、英語におけるバーバリアン(蛮人)の語源になった。
令和の日本における差別も、おおよそこれと同じで理解できない対象を、理解することなく区別することで認知処理をショートカットしている。
この認知処理のショートカットこそ偏見や誤解の正体だが、これも含めて差別とするから、かえって差別撤廃に進んでいかないと考える。なぜか。
認知処理は瞬時に行われる脳内処理かつ外的には観察できないものだ。これを禁止するといっても外形的には捕捉できない。
捕捉できないのだが、道徳的に「よくないもの」とくくった上で社会的に制約をかけようとする。まるっきり効果的でないうえに以下のような反発が発生する。
人はおおよそ、自分で制限できないものに制約をかけられても対応できない。対応できないのに、それを「悪いこと」と定義されたときにどう行動するのか。
大概の場合は隠す。一部の人たちは「んなもん無理だよ」と反発する。
いじめ、談合、カルテル、労災隠しなど、さまざまな不正がいけないことだとされながら、いまだに根絶できていない。ダメだと言われるたびに実態が隠され、陰湿化していく。これらと差別は似ている。
必要なのは、偏見や誤解という出力をした認知処理を責めるのではなく、その結果として表出する言動の方だろう。
街宣、ネットでの投稿、対面での発言など、対象となる属性を持つ人たちに直接間接問わず届ける言動があったこと、それ自体を禁止すると解釈できなくては止まらない。
おおよそ、ありとあらゆる法律が、そうして行為を制限している。
差別も同じような構造で対応する必要がある。
「道徳的に許せない」などという理由で、最初の認知処理の部分までフタしようとしても実効性はないし、反発を招くだけだ。より陰湿になって差別が根を張っていく。
差別とは、認知処理と言動だ。
これを理解しているオピニオンは、差別主義者の言動の方に注目して批判する。
が、そのフォロワーはどこまで理解しているのだろう。
オピニオンも差別こそ攻撃するが、フォロワーをたしなめるといったアプローチは運動論の観点からほとんどなされない。それが差別主義者からは身内に甘いと解釈される。
そして不毛な争いに突入していってしまう。
特定の民族、国籍の人たちが嫌いというなら仕方がない。
なにしろ認知処理の結果は外形的に観察できない。よって無視する。
ただし、これを理由に攻撃した場合、その言動を許さない。
こちらの方がよっぽどシンプルで行動が頑健だと思うがどうか。
たとえば頭髪が少ない人に「ハゲ」とか、平均より体重のある人を「デブ」とか、年かさのいった男性を「じじい」とか、そういうことを面と向かって言うのか?
これがなぜ人種、学歴、性別、宗教などになると途端に許されると思うのか。
自分がそうした属性に含まれなければ、つまり攻撃対象じゃないならば、どんな言葉を投げても表現の自由だと言いたいのか?
ふざけた話だ。そんなことは日常生活レベルで唾棄すべきものと理解せよ。
もう少し整理しよう。
誤解や偏見に至る認知処理は当人の経験や知識による。
多くは教育によって解消可能だ。
しかし、そのためのコストはとんでもなく莫大なものになる。
教育は本人が進んで参加する姿勢がなければ効果が薄く、そのための導線づくりから始めないといけない。それも頭ごなしに「ダメだ」とやらず傾聴するところから始めないといけない。そんな忍耐をもつメンターを十分に用意できるのか?
わたしは国会議員が差別をむき出しにしてもペナルティが課されず、政権政党が公認候補として続投させるような現状では相当に難しいのではないかと思っている。
認知処理のレベルにまで踏み込んで差別根絶のキャンペーンを張るのは無理だろう。
人はあらゆるものを欲しがる。
しかし実際にスーパーやコンビニで支払いもせずに奪い取れば窃盗となる。
欲しい気持ちに罪はないが、奪った行為は罪になる。
同じようなことが差別には適用できないのか。
フィクションでの暴力や性描写は許せても、現実の人間が考え・感じることまで網掛けしないと許せないのか。
令和の日本が差別と対決するとき、道徳的に考え・感じる認知処理にまで手を出して泥沼化するのか、もっと外形的に言動に対して対決するのか。
ここを整理すべきではないかと思う。
