狐の酒盛りという昔話がある。
話の筋はこうだ。
狐の村があった。村の寄り合いで各戸から徳利一本の酒を持ち寄り酒盛りしようということになった。ある狐が帰り道、しかし俺一人が水を入れて持って行ってもバレるまい。
そして酒盛りの日、狐は何食わぬ顔して徳利に水を入れていった。さて、徳利が集められ、みなの盃に酒が配られる。乾杯の合図で杯を空ける。
「なんじゃ、こりゃ?!」
あちこちで怒り、嘆き、呻きなど声が上がる。なんとまあ、ほとんどの狐が酒の代わりに水を持ってきたのだった。
検索してもこれにピッタリ一致にする話は出てこない。
どこで聞いたんだろう。記憶にない。
ただ、似たような話は古今東西にあるらしい。
昔からコミュニティで騙すような真似をするなと戒めてきた証、言い換えればフリーライドしようとする連中は常にいたということだろう。
責任分散理論
ナッシュ均衡
囚人のジレンマ
合成の誤謬
等々。
この令和の時代ならば、狐の酒盛りを説明するのに適切なキーワードは山ほどありそうだ。
ようするに、「集団としてはAを選ぶべきなのに、個人としてはBを選ぶ動機が大きい」というやつだ。
社会を構成するメンバーが、社会に貢献すべきなのに個人を優先してしまう。そういうことはしばしば起こる。
たとえば選挙にしたって有権者全員が投票すれば、理想的には全員の意思決定が反映された結果が得られる。だが、実際にはそうはならない。
灰皿を確認する前にタバコに火をつけるやつはいるし、列に割り込むやつも、図書館の本を返さないやつも、植物園の花を勝手に持ち帰るやつも、チートで対戦ゲーム環境を破壊するやつも、あれもこれもどれもそれも。
公共の利益と個人の欲求が一致すれば快適だろうと思ったりもするが、そうはいかない。フィクションなどではそういう種族がいたりもするが、たいていは人類と相容れない異質な存在となっている。
たとえばKenshiではハイブと呼ばれる昆虫に似た社会を形成する種族がいる。女王を中心とするコミュニティを形成し、歯向かうものは追放される。
Master of Orionではクラッコン族がいる。その種族説明はこうだ。
各々の欲望を満たすためではなく、公共の福祉のために働く。実際、クラッコン族は、個人的な興味を持たずに生まれてくるようで、生まれながらに彼らの意識はハイブそのものである。(以下略)
EndlessSpace2にはクレイヴァー。ES2は宇宙を舞台にした4Xゲームだが、クレイヴァーは超種族エンドレスに想像された半昆虫半機械の勢力で、惑星の資源も入植地の他種族も食いつくしてしまう。
これらの種族に共通するのは
- 中央集権的社会
- 排他性
- 昆虫に似た外見
等がある。いわば全体主義のジョークのような存在だ。
確かに一つの方向性が正解である場合、これらの種族は無類の強さを発揮する。だが、ひとたび劣勢になると打開のオプションに乏しく巻き返しできないことが多い。
集団に傾き過ぎて没個性になると滅びは早いのかもしれない。
小説「ザ・スタンド」では悪の勢力は秩序正しく社会を機能させた。いち早く電気を取り戻し、生産体制を回復させた。他方で首領ランドル・フラッグの意向に逆らうと残忍な方法で死がもたらされた。
そこへ行くとコミュニティのメンバーが比較的自由でまとまりを欠いた善の勢力は、集団としてのリソースを集中させることが難しかった。合議制は不満が比較的少ないように思えたが政治に傾きすぎ、最後は精神的指導者というべきマザー・アバゲイルに叱咤されることになる。
一見すると悪の勢力が優位に思われたが、最後はあっけない滅びを迎えた。
狐の酒盛り、ないし類似の昔話が示すのは、ただ「コミュニティに参加しろ」という道徳的な話ばかりではなく、人々が集団においてはどういう性分であるかを示すヒントであるようにも思える。
端的に言うなら、コミュニティが利益を創出してくれるから個として余裕が生まれ、それがためにズルしたり、怠けたり、個人の欲求に走りがちなのだろう。「ザ・スタンド」では善の勢力も個々の結集までは本当に悲惨だったが、コミュニティを築く過程では余裕も生まれ、そして別の課題が生じるという展開になっていった。
もし個々が苦しい状況ならば、コミュニティの維持にかたむくだろう。沈没する船で火事場泥棒したって意味がない。
この個人の安全が満たされる基準とコミュニティが分配する富のバランスが人それぞれ違うから、おそらくはズルする人がいて、真面目に貢献する人が出るのだと思う。
フリーライドしても大丈夫と思う人と、もっと豊かさを増やそうと考える人がいるわけだ。それは教育や欲求の強さ、社会の公平性などさまざまな要因があり、さまざまな反応を引き出すのだろう。
余裕がなく目先のことにしか関心が向かない人にコミュニティを言っても理解できないだろうし、反対に余裕がありコミュニティの関係を重視する人は貢献の度合いが大きくなりそうだ。
狐の酒盛りの話にしたって、最初から寄合で集金して酒を用意すると決めたら水で酒盛りすることにはならなかった。
そこでお金を出すことに反対するような村の雰囲気なら、それは酒盛りする場合じゃなかったのだろう。「誰かが出してくれるなら参加してもいい」と「みんなで楽しく酒盛りしよう」では参加者の意識が違う。アウトプットも違う。
話自体は単純だし、その意味するところは簡単なワードで説明できてしまいそうだが、人々の性質というのはそう簡単に理解できそうもない。
だから政治が複雑になるし、経済もややこしい。ただ、政治はそれでも一人一票が担保され、一部例外はあるが投票そのものには制限がない。
誰が望んだかも分からないマイナンバーカードの保険証化や防衛費のGDP比2.0%などは勝手に進めるが、少子高齢化、物価高対策、高まり続ける社会保障費などはちっとも解決しない。
現実の政治参加は狐の酒盛り以上に複雑だ。前もって集めた税金が思ったような使われ方しないのに腹を立てることも多い。それで見ないフリして投票所に行かない選択も可能ではある。
だが結局、参加しなくても勝手に使われることには変わりない。この場合はフリーライドではなくフリーハンドを与えることになる。なんだか腹立たしい。
政治も選挙では「酒盛りしまーす!」といった有り様なのに、実際に政治を駆動させるときには「水でやりまーす!」になってしまう。
わたしにはそう思える。だから腹を立てる。政治に不満を持つ人のメンタリティは似たり寄ったりだと思う。政治に関心ない人にとって、政治に本気になって怒る人たちの心情は理解できないかもしれないが、だいたいこういう気持ちでいると言えば伝わるだろうか。
