映画「ブレードランナー」の原作小説。
これが1968年の小説というのが本当に驚いてしまう。
ディストピア、ポストアポカリプス、人類とアンドロイド、捕り物等々。SFとしても、アクションとしても、人類とは何かという哲学においても刺激を提示してくる。すごい作品。

読み返してみると冒頭から惹き込まれる。
情調(ムード)オルガンというガジェットを登場させ、この時代は感情さえ機械がコントロールするもので、しかしそれがかえって人々の精神を荒廃させている様子を見せつける。
そして世界は大戦によって滅んでしまい、生命で死に絶えた地球では生き物を飼うことが義務のような美徳のようなステータスのような扱いになっている。それゆえ生き物は高価であり、手が届かない層には機械動物で自他を偽りながら暮らしている。
また大半の人類は地球外に生活拠点を移してしまっていて、地球に残った人類は郷愁にとらわれた正気の人たちか、放射能の灰によって不適合の烙印を押されたもの、あるいは正気をどこかに置き去りにしてしまった人たち。
これを諦観と怒りと皮肉で示してくる。近年ではこの手の作品世界をポストアポカリプスなどといってゲームではジャンルの一つになっているが、1968年当時にそんなものがあったのかどうか。
当時のアメリカで1968年といえば朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦だ。厭世ムードはあったのだろうが、同時に映画文化では「古き良きアメリカ」文化が重宝された時代ではなかったか。
この手の世界観を送り出したフィリップ・K・ディックと出版社がすごいと思う。
また主人公リックが警察所属のバウンティハンターだが、朝から情調オルガンで言い合いするほど関係が冷え切った夫婦で、生きた羊を喪い、電気羊で周囲を偽っている。
救いのない世界、救いのない男、ようこそポストアポカリプスへ。
そこからたたみかけるように逃亡アンドロイドの追跡と処理が始まる。鬱屈した世界、人類に非常によく似た、しかし人類ならざる"それ"は、やっぱり人間じみている。
鉄腕アトムがどこまでいってもロボットと人間という関係だったのに対して、この作品におけるアンドロイドは人類との境界をやすやすと乗り越えてくる。
「人類とは何か?」という問いかけは、ストレートな形では作品中に出てこない。そんな映画「CASSHERN」のようなことはしてこない。
だが、もう一人のバウンティハンターのフィル・レッシュが登場するに至り、「人類とアンドロイドの違いは何か?」という疑問を突き付けてくる。
この本を読み返してFallout 4を否が応でも連想させられてしまう。
大戦により崩壊した世界で、ひそかに科学技術を維持してきた集団「インスティテュート」が生み出した人造人間は、本作同様、人類とは何かという哲学的テーマを突き付けてきた。
いや、Fallout 4に限らず、人類と機械生命を同時に世界に提示し、人類の再定義を迫る手法は近年では珍しいものではない。しかしこれが1968年の作品かと思うと深く考えさせられる。言ってみれば「人は過ちを繰り返す」というわけだ。
そうした哲学的な部分も含みつつ、捕り物としての面白さもすばらしい。
見た目そっくりで最新の脳デバイスで人間を騙すアンドロイドを判別するガジェットとして、フォークト=カンプフ検査法は、いわゆるウソ発見器みたいなもので作品世界においては適切に用いれば優秀な判別法なのだろうが、どっこい作中のアンドロイドは手ごわい。やすやすと乗り越えてくる。
そもそも逃亡アンドロイドの追跡以前、チュートリアルのような部分での実践からして興味深い。作者ディックが人類をどう見ているかが分かるような気がする。
ただ、終幕にかけては微妙だなと思わなくもない。なんで一人で荒れ地に行ったのかよく分からないし、そこで見つけたものが何だったのかも分からない。
なにか蛇足であるような気がしてしまう。
とはいえ、タイトルを回収するという意味では、まさしく「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ということだろう。いかにも人類のように擬態したアンドロイドが、やっぱりアンドロイドだと決着した次の瞬間、それは鮮やかに裏切られる。
年齢を重ねるごとに、あるいは自分の生活環境が変わるごとに受け取るメッセージが変わる秀逸な作品だと思う。