きのけんぶろぐ

政治社会とエンタメを等しく興味をもって発信するブログを目指しています

ポリコレが作品をつまらなくしているのか?という考察

「ポリコレのせいでつまらなくなった」という。なるほど。

「説教臭くてつまらん」と。

でもそれ、本当にポリコレのせいなの?

などと思ってしまう。

 

つまらない理由をポリコレという単語で切り捨てるのは簡単だし爽快なのかもしれないが、その実、自分の首を絞めてるだけのように見えている。

ポリコレを理由にぶん殴る快感におぼれている人には手が届かないが、少しでも言ってる当人ながら違和感を持つ層に向けて送る。

 

実は安直なエクスキューズしているつもりで世の中の解像度を落としているんじゃないかと思っている人たち、少し目を凝らしてみようと思っている人たちに向けて送るエントリー。

 

ポリコレは、正式にはポリティカル・コレクトネス(Political Correctness)という。

もともとは1960年代、アメリカの政治運動に端を発しているが、さまざまな変遷を経て現在の日本では性別、宗教、人種、障がい、性的志向などの偏見から自由であることを目指す政策や言論制約をいう。

具体的には看護婦や保母さん、スチュワーデスなどといった呼び方を、それぞれ看護師、保育士、客室乗務員(キャビン・アテンダント:CA)などと言い換える運動などがこれにあたる。

 

この呼び替えレベルでもあっても、一部に反発があったと記憶している。今でも看護婦や保母さんといった呼び方をする人はいるし、それがなぜダメなのかを深く考えることを日本社会は実践してこなかった。

日本が民主主義に政体変更したときと同様、ボトムアップではないトップダウンからの動きだったため、今一つ理解されないまま現在まで続いていることが不幸の一つだと言える。

 

日本ではさほど極端な実践がなされていないが、アメリカでは相応に歴史を重ねている。

日本の特撮フォーマットであるスーパー戦隊を持ち込んだパワーレンジャーでは、性別や人種が配慮され、紅一点はない。日本のようにピンクが女性枠という当時の風潮は最初から存在しなかった。

ただアメリカでも問題がなかったわけではなく、イエローはアジア系、ブラックが黒人という2026年現在でやれば間違いなく問題になったであろうキャスティングではあった。

 

 

ひるがえって近年でも2023年実写版「リトル・マーメイド」では、赤髪白人の人魚が黒人ドレッドヘアーの俳優が演じたことで吹き上がった。

 

このキャスティングの背景は、もともとが白人優位のキャスティング環境で歴史的に黒人であった人物を白人が演じることはよくあり、それが黒人俳優の進出を妨げるなどの主張があった。

結果、白人がほかの人種を演じるには相応の事情と説明が求められるようになった。制作会社もリスク回避のため、わざわざそうしたキャスティングをしないようになった。

ところが歴史的に白人である人物を黒人その他人種がキャスティングされることには批判されない、それは歴史的事実より俳優のキャスティング偏りが理由で、それがそのまま実写版「リトル・マーメイド」にも反映されたのだろうと想像する。

 

だが、これはよくよく考えるとおかしな話だ。本来の意味に立ち返るなら人種に関係なく演じることがポリコレだろうし、逆に言うと障がいを持つ役は必ず障がい者俳優が演じる必要があるのかといった問題が生じる。

ここがうまく説明できないため、結局は実写版「リトル・マーメイド」は後味の悪い作品になってしまった。

きちんとした説明ができなかったため、これをして「行き過ぎた配慮」など言われる現象が顕現化し、ポリコレが殴っていい対象認定される素地になった。

 

ここまでが現在に続く「ポリコレでつまらない」と理屈づける背景になっている。

 

ただ、これは本当に下手な芝居だと思う。

きちんと配慮したエンタメは、ポリコレの思想が作品をつまらなくしたりはしない。

いくつか紹介しよう。

 

マーセデス・ラッキーによる小説「女神の誓い」は、一族を殺された馬賊の生き残りの女性戦士タルマと苦難にある女性は助けなければならないという誓約に縛られる女性魔術師ケスリーの物語だ。

これは女性二人の主人公によるファンタジーで、当時は荒っぽいファンタジー世界におけるヒーローはすべからく男性であり、登場する女性といえば主人公の帰りを待つ妻か悪のドラゴンに囚われた王国の姫というのが相場だった。

それゆえにタルマとケスリーの物語は斬新だったが、これをポリコレと叩く人は見たことがない。

 

もう少し有名どころだとエイリアン・シリーズのリプリー、ターミネーター・シリーズのサラ・コナーなどがいる。

どちらも戦う女性で男性に媚びたりはしないが、それでポリコレだと叩く人はいないと思うがどうだろうか。

逆に言うと、彼女たちをポリコレの象徴にした途端、ぶっ叩き始める人がいそうな程度ではないかと思うがどうだろう?

 

また日本では洋ゲーが嫌われる理由の一つに「女性がかわいくない」というのがある。もっと下品な言い方だと「エロくない」と。

初期ドラクエやFFの時代からそうだが、男性戦士はがっちり防具を身に着けているのに、女性戦士は下着みたいな格好して巨大な武器を振り回す。

ハッキリ言って、こんなものは女性をエンタメと同時に性的にも消費しないと気が済まないオスの劣情に配慮したものであって、これこそポリコレによってぶっ壊してほしいと願ってやまない。

 

他方でやたらと障がい者を美化しすぎる、性的マイノリティをやたら一般化したがるといったシナリオも気に食わない。

それがシナリオ上の必然に基づく背景ならばまだしも、ただポリコレという文脈に沿っただけでシナリオの面白さをスポイルさせる作品なら、それはもうポリコレを腐らせるだけであるばかりか、作品文化を貶めるものとして叩きのめしたい。

よくあるのが障がいを代償に別の有能な特性を持つという描写。現実世界はそんなバーターで障がいが発生しているわけじゃないのに。

 

エンタメにおけるポリコレとは、消費者の急所を押さないよう配慮するツールにするべきものであって、エンタメとしての面白さを欠くようなら、それは制作者が悪い。

つまらないことをポリコレのせいにするようなら、以降はエンタメの世界で飯を食わないでほしい。

 

「じゃあ、エロい作品じゃなかったら暴れていいか」だと?

なんでここまで書いたのに気付かないんだ。

エロとして消費される側の属性を持つ読者なり視聴者なりが、ただその属性を持つというだけで不快になるだろうが。だからダメなんだ。

そんなことも分からないから、ポリコレ棒などといってバカにされるのか分からないのか。

 

制作がポリコレを過度に持ち込んで作品をつまらなくしている場合もあるが、消費者が認知のゆがみで作品を貶めている場合もあるだろう。

ポリコレが作品をダメにするのは、制作側、消費側、両方であり得る。内心で腹を立てたっていいが、SNSやコメント等で暴れまわるのはよせ。それはエンタメを腐らせる片輪でしかない。

高度情報化社会においては、消費する側も一定のコードが必要だ。面倒くさいと思うだろうが仕方ない。情報公開請求されて人生を失いたくないだろう?