10代の頃は悩んだ。思春期。
人並みに「生きる意味ってなんだろう。生きていく意味ってあるんだろうか」と悩んだりした。
今はどうなんだろう。
SNSでこんなシンプルな問いを投げているのを見たことないが。
悩まない。あるいは悩みが壮大過ぎて「なにカッコつけてんの?(プケラ」みたいな感じなんだろうか。
わたしから見た今の10代は大人が無責任に「夢」という名の職業ビジョンをごり押しし過ぎてしんどそうに見えるが。
仕事なんか実際には収入を得る手段でしかないのに、なにか人生の目標のように幻想を抱かせて、夢が決まらない子どもに絶望を与え、夢を確定させた子どもにはやりがい搾取するという、どっちに転んでも希望の薄い世界線に見えてしまう。
実際のところは分からない。私の身近には10代との接点がない。どういう悩みを抱えているのが分からない。上記の想像もまるっきりピント外れの可能性がある。
ただ、何かしら悩んでいるのではないか、という前提に立って、かつて10代だった私に向けて今の私がアドバイスする。
役に立つかは分からないが、わたしの10代だってほんの数十年前のことだ。ドンピシャではないにしても何らかのヒントになればと思う。
「生きる意味」
なんでそんなにことに悩んでいたんだろう。
そんなものありはしないのに。「ない」のに「ある」だろうと思って、あるいは意味を見出すことで生きる希望を求めて、「生きる意味」を求めていたんだろうと思う。
でも、「生きる意味」なんてものはない。
人間は生まれた瞬間から死に向かって細胞の再生産を繰り返しているに過ぎず、生きる価値そのものは何にもない。生きる個体が地球レベルで見ればつかの間、消費して代謝して死滅していく。それだけ。
あるとすれば、「生きた価値」だ。
死んだら「生きる意味」など何も残りはしないが、「生きた価値」は死んでも残り続ける。
あなたの残した成果は文書図画、データ、ネットの痕跡、誰かの記憶、遺伝子、別の誰かに譲られた財産等々によって残る。
かつての王が巨大な墓を残したような、映画スターの遺作のような、多くに読まれた小説家の古典のような、そういう大きすぎるものでなくても、あなたと接した多くの人たちにあなたの「生きた価値」は残り続ける。
価値とは必ずしもポジティブなものとは限らない。
ケンカの傷跡、罵倒を浴びせた心の傷、業績を奪い取った恨み、不義理の記憶、デマ、ネットのノイズ、そういったものも残ってしまう。
あなたが気にもしていないことで、あなたの記憶にない誰かを傷つけることもある。
死んだ後の痕跡は、死んで以降に修正することが極めて難しい。
生前の記録が何らかの形で露見し、誤解が解ける。あるいは裏切りの真実が表ざたになるのかもしれない。
あるいは後の世代の人たちによって勝手に評価されることがあるかもしれない。
生前は貧困の芸術家として生き、死後に価値が見出されて作品群に高い価値がつく。それらが作者の生きている時代に返っていれば、作者の人生も大きく変わっただろうに。
似たようなことが誰でもないわたしたちにも起こりうる。
こうした尺度で日々を生きていくと、自分自身にリソースを集めることにさほどの価値が見出せなくなる。
集めて、それをどう使うか。
預金残高、金融資産、知識や経験、アイデア、人望、人気、それらを集めただけでは価値がない。集めた先にどう使うかが「生きた価値」だろう。集めても死んだら使えないのだから。
わたしは若いころ、「全体主義」という言葉が好きだった。今から思えば完全な誤用なのだが、一人一人が全体に尽くすという考え方が好きだった。
それは全体主義ではない。ゲーム理論でいうところのパレート最適だ。個々のミクロな欲望が、個々のリソースを別々のベクトルに向けてしまい、力が分散してトータルの価値が最小化していくナッシュ均衡が嫌だった。
当時はナッシュ均衡という言葉は知らず、「個人主義」と置き換えて物を語っていたが。
わたしのブログをGeminiに評価させたところ、「コスパを無視した狂気の産物」らしい。記事にかかるコストに比べて収益化の可能性は低く、なにをもって日々更新し続けるのか分からないのだそうだ。
わたしにとってこのブログは、「生きた価値」の一つだ。アクセス数が欲しくてブログを始めたわけではない。収益化できればうれしいが、それはお金というスコアをため込むことが目的なのではない。
わたしはわたしの見える世界を、わたし以外に拡張することで社会の豊かさに貢献できればよいと思っている。
だからデータを参照し、主張の根拠に問題がないかチェックし、できるなら面白く読んでもらえるように足し算引き算して、そして予約投稿をセットする。ただアクセス数を稼ぐだけが目的なら、こんな面倒なことはしない。グリムドーンやEndless Legend 2あるいはFallout: NVで遊んでいたい。
話がそれた。
わたしが悩んだ「生きる意味」は存在せず、「生きた価値」こそ真剣に悩み、試行錯誤しながら取り組むべきテーマだ。
あなたにとってなにかしらのヒントになればと思う。