映画「スタンド・バイ・ミー」の原作小説。もともと本国アメリカで「Different Seasons」という中編集に収録された1話。
本エントリーは新潮社出版「スタンド・バイ・ミー -恐怖の四季 秋冬編-」による。
一行あらすじ
1960年代、12歳の4人の少年が同年代の少年の死体を見に線路沿いをいく青春小説
映画はリーダー格の少年を演じたリヴァー・フェニックスがとくに有名。わたしもつい先日、DVDで鑑賞した。自身の体験でもないのに懐かしいと感じさせる要素がいくつもあった。
まあ、ちょっと記憶違いの面もあったのは事実だけど。
以下は映画版を受けた小説版のレビュー。映画版とは違う結末に映画鑑賞後の感傷と全く違う読後感を残す。
小説版は映画版と違って一つ一つのエピソードが濃い。そしていちいち冗長。なんなら飛ばし読みしたい衝動と常に抵抗し続けなければならない小説といってもいい。
映画版にも劇中劇「パイ食い競争」が出てくるが、小説版はこれともう一つ別の作中作が挿入される。
この2編は主人公ゴーディの将来は小説家という側面を強調する役目を担っている。それぞれ拙いながら読ませる部分もあり、全く退屈とは言えない。
よくよく読めば一つは世界への復讐、もう一つは家族ないし父親への復讐というテーマを含んでいて、それは本作のゴーディないしクリスに通じるところがないこともない。
そうは思うが、この作中作を冗長と感じる読者がいても、これを批判する気にはなれない。
あるいは映画版は割合にテンポよく話が進む一方、小説版はとにかく冗長。まず死体探しに出かけるまで70ページもかかる。全体で300ページほどあるから、じつに4分の1を使っていることになる。
映画版はキャラクターの描き分けが浅いと思ったが、小説版はしつこいほど書く。
テディの父親は戦争帰りでPTSD(小説では戦争神経症)を患い、テディを虐待したりもするがテディ自身は父親を攻撃されると猛然と攻撃する少年。
バーンは少々愚鈍で、家の床下に埋めた小銭入れを、どこに埋めたか分からなくなったがために延々と4年間も(!)掘り続けるほど。
クリスは父親が飲んだくれで、クリス自身が虐待被害者になることもしばしば。家が貧困で学校のミルク代を盗んだとして停学3日をくらっている。
ゴーディは最近、年の離れた兄を亡くし、両親からいない子のように扱われている。
等々。
このしつこいくらいの描写がキングの持ち味とはいえ、最近のサクサク読ませる文章に慣れているとなかなか厳しいものがある。
ともかく中盤に辿り着くまでは我慢の連続。だが、その中盤に辿り着く前に作中作が挿入されるという。
こんなに入り込みにくい小説だったのか。これも時代なのか、それとも私自身が年を食ってせっかちになったということか。
ともかく映画と対比して思うのは、映画版が物足りないと思った部分がしっかり小説版では深堀りされていると感じる一方、それが過剰だと思う場面も結構多い。
深掘りだと思う筆頭は雑貨屋で食べ物を調達するシーン。
雑貨屋が肉の秤を指で操作したり、会計の計算をちょろまかしたりしようとする。それをゴーディに指摘されてカンカンになって怒り出す。
またゴミ捨て場のマイロは映画版でもそれなりに悪さを発揮していたが、小説版だともっと悪辣になっている。テディの父親をきちがい呼ばわりし、少年を徹底的にやっつける。
これら二つのエピソードは大人がまるっきり公正さを発揮してくれず、子どもを有害であるかのように扱うところが効いている。少年4人にとって全く優しくない世界。ようこそ、古き良きアメリカ。
そこから先の二つのエピソード。陸橋での列車競争とヒル吸い事件は、映画版が映像の迫力でやってくれる方が見ごたえがある。
小説版だとスリリングではあるが、それほど重要なシーンのようには読めない。
ラストがまた残酷だ。
映画版だとラストは不良エースらとの対峙で、少年4人のうち逃げ出したテディとバーンを除く2人が最後の最後まで突っ張り通してエースらを追っ払う。その後も付け足しがあるにせよ、映画としてのラストはここだろう。
小説版でもエースらとの対決は描かれる。テディもバーンも逃げる。残されたクリスとゴーディがエースを追っ払う。ここまでは同じだが、映画版がはしょった部分を映画しか観てない人には思ってもないほど深く書いている。
映画版でもクリスは死ぬ。大人になってからケンカの仲裁に入ったところでナイフをのどに突き立てられて即死する。
違うのはテディとバーンの扱い。彼らも死ぬ。テディは飲酒による交通事故で。バーンは麻薬耽溺中の火災事故で。
また、テディとバーンは就職組、ゴーディとクリスは進学組に進み、友人グループとしても付き合いがなくなることまで描写する。
実に残酷。
映画版では「12歳の頃の友情はもう手に入らない」みたいなお茶の濁し方をするが、小説版はそんな一文では済ませない。もっと現実を掘り下げる。
これはわたしたちだって似たような経験があるだろう。たとえば成人式。小中学校の同級生と再会するが、あまりに違った進路で重なる部分は過去の記憶しかない。成人式じゃなくてもいい。10年、20年経ってからのクラス会。
結局、子ども時代は、とくに10代の前半くらいまでは地域でくくられるが、そこから先は学力や家柄や本人のやる気ないし交友関係で枝分かれしていく。
そこを1960年代から始めたキングのストーリーは、今に通じる残酷さを小説の中で強烈に突き付けてくる。ここが映画版との決定的な違い。これを得たいがために何度も読み返してしまう。
あるいは忘れていて、読み返したとき、再び苦い思いを味わう。
映画版がこうならなかったのも当然だろう。劇場を出て、「おい、なんだ途中までいい感じだったのに、最後は仲間の半分がくずで死ぬ。残った二人のうち一人が良き行いのために死んだぞ。なんだありゃ?!」となるのは誰だってイヤだ。そんなことのために劇場に足を運びたくはない。
他方の小説は、なるほど小説はどこまでも小説だ。自分のペースで読めばいいし、イヤになったらやめてもいい。映画のように強引にラストまで付き合わせる空間提供とは全く異なる娯楽だ。
映画版と小説版のどちらが良いか、という話にはならない。
しいて言うなら、
映画版は列車との追いかけっこ、ヒル吸い祭りが秀逸
小説版は少年時代から成長していく人たちの変化の機微が秀逸
こういうことになるのではなかろうか。
わたし?
わたしはどっちも好きだ。
しかしどっちか選べと言われたら小説版かな。
子ども時代と同じようには付き合えないっていう現実を、改めて確認できるのはつらくもありがたい。
だって仕方ないじゃないか。成長する過程で観測能力が隔てられていくのは。それが本人の努力ないし努力以外のところで引き裂かれていくのは、それ自体はどうしようもない。
その差を埋める媒体も昨今は豊富にあるが、その逆に誤解を定着させるデマや偏見を野ざらしにする媒体もまた許せないくらい多い。
"古き良きアメリカ"で埋め合わせできないものを、この現代日本においても病巣のごとく抱えているのだと再認識させてくれるきっかけは、甘くはないが有り難い。
ちなみに私の手元にあるのは令和元年5月の55刷で750円(税込み810円)。
最新刊を購入すると税込み935円。
ほんの数年の間に100円近くも値上がり。
