全く自分の経験にないことなのに、なぜか自分事のように懐かしさを感じる。そういう映画が世に何本かある。映画「スタンド・バイ・ミー(1986年)」はそういう映画の一つ。
ステンバア、ミー
ソ、ダアリン、ダアリン
ステンバー、ミー
オウ、ステンバア、ミー
これがどこからか聞こえると、その瞬間、四人の少年が線路を歩く後ろ姿。なんだか切ない胸がキュッと握られるような、そういう感覚。
ひさびさに本棚のDVDを引っ張り出して鑑賞した。ああ、なるほどといろいろと思い返すことが様々。
もう40年前の作品だ。ネタバレとか気にしなくていいよね。
本作は4人の少年が死体探しという冒険にいくノスタルジックな青春映画だ。
まだ少年だけど、もうじき中学進学という微妙な時期、将来について考え始める一方、今はまだまだバカやってる。そういう年代の心の揺れが美しい。
陸橋を渡っていると後ろから汽車がやってきて命がけのレースをやったり、沼を渡るとヒルに吸いつかれたり、ただ線路伝いに死体探しにいくだけでこんなにアレコレ起こるもんかと感心するほど。
しかし観客が心をつかまれるのはここではない。4人の少年のうちゴーディとクリスの2人がよい。彼らの友情こそ本作の神髄。
ゴーディは町では裕福な方だが、兄を亡くしたばかりで両親が意気消沈。残されたゴーディは拒絶され、唯一の理解者だった兄もいないため孤独を感じている。
クリスは父親はのんだくれで兄弟も素行が悪い。そのせいで何かやっても弁明さえ聞き入れられず盗んだ集金を返したはずが、返した相手の先生がネコババして罪を着せられ、世の中に絶望している。
この二人がお互いに相手の孤独や絶望の告白を受け、そして傷ついた同士の少年2人がお互いを支えに前進していく姿に観客は惹きつけられる。
決して股間にヒルが吸いついたから惹きつけられるわけじゃない。
映画タイトルのスダンド・バイ・ミー(stand by me)も、4人の少年が死体発見というゴールに辿り着き、そこで遭遇する不良グループという悪と対面、4人のうち2人が逃げ出し、たった一人になってクリスに寄り添うゴーディ。この少年2人の物語だ。
だから死体を探したからゴールしたのではなく、孤独や絶望にあった少年が、互いに支え合う相手を見つけられたこと、これがゴール。
そして少年らは成人し、ゴーディは小説家になっていた。
クリスは弁護士だったが、ケンカを仲裁しようと割って入ったところ、ナイフで刺されて死亡する。
あの頃の友情は戻らない。
あの頃の友情はもう手に入らない。
そして流れるスタンド・バイ・ミー。
心がギュッとつかまれる。
のか?
これは時代のせいなのか、わたしが年食ったせいなのか、どうもいろいろと見える景色が記憶のものと違う。
冒頭から少年らがタバコを吸ってカードに興じるというのも、当時はそうだったのかもしれないが今の屋内喫煙が原則禁止になった世界では、ちょっとどころか相当な違和感があるし、88分という尺に対してエピソードを次から次へと繰り出してきて、とくにパイ食い競争の劇中劇は必要だったのかと思うほど。
今ならわかる。
原作原理主義で可能な限りエピソードをつぎ込み過ぎて、それぞれが薄くなってしまい、原作が持っていたパワーがぼやけるやつだ。
とくにわたしが原作を何度も読んでしまっているのも大きいのだろう。今、これを見てもさほど感動できない。
どっちかというかクリスとゴーディのBLのように見えてしまった。男同士の友情というには二人が若すぎるし、アメリカ文化が日本の距離感と違うのか、二人が近すぎる。そのままハグしてキスしたって別に違和感がない。
ああ、イヤだ。わたしもイヤな大人になってしまった。わたしの若いころにはあったはずの、あのピュアに受け止められる鑑賞眼はどこにいってしまったのだろう。
そうか、それこそが最後の一押しか。12歳の頃の友情はもう戻らない。納得。
