きのけんぶろぐ

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今さらゲームレビュー「フォールアウト4(Fallout 4)」:奪われた息子を探しても探さなくてもいいポストアポカリプスの自由(?)なオープンワールドRPG

Fallout 4は、奪われた息子を探しにパパ(ないしママ)がポストアポカリプスの世界に踏み出すシングルプレイRPGだ。

日本では2015年12月に発売。PC(Win)ではsteamでプレイできるほか、プレステ、Xboxでも遊べる。

わたしはsteamで1300時間ほどプレイした。それでも無性に再プレイしたくなる。

 

中には8000時間以上プレイした猛者もいるゲームだ。

 

 

そんなFallout 4を今さらレビュー。

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昔話「鬼の腕」の持ち主がハンスト労働を選んだ理由を考える

ひとつ前のエントリーで昔話「鬼の腕」は消え去った伝説か、はたまた先祖返りの地獄めぐりかという考察をした。

人手がいるのにケチって最後は絞め殺される。それが昨今の人手不足倒産に重なって見える。必要なら払え。

という結論だった。

 

cinochenus.hatenablog.jp

ところで、昔話「鬼の腕」には大店(おおだな)と鬼の腕以外にも登場人物がいる。鬼の腕をくっつけて登場した大男だ。彼は何者だろう。

そのあたりを妄想膨らませて考えてみるのが本エントリー。

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昔話「鬼の腕」は現代では消え去った伝説か。むしろ先祖返りの地獄めぐりという視点

子どもの頃、絵本か何かで「鬼の腕」という話を読んだ。それが今に至るも記憶に残っている。話はこうだ。

 

大きな店を構えた大店がいた。彼は大層ケチで雇人の飯まで減らそうとする。あれこれやった挙句、最後は吊るした塩鮭を眺めて飯を食えというので番頭含め全員が逃げてしまった。大店はケチで気にしない「食わせる飯が減った。儲かった儲かった」

しかし手がなければ店は回せない。困っていたところに大男がやってくる。「飯はいらん。一晩一合の酒をくれ」と。これは都合がよいと歓迎する大店。確かに男はよく働く。ところで男はどうやって酒一合で過ごすのか。気になった大店は男の暮らす小屋を覗く。すると男は腕に酒をふりかけ「今日もよくやった」と声をかける。腕は真っ赤に焼ける。

とはいえ、男は腕に酒をやるばかりで飯も食わないから弱っていく。くたびれて座り込んだところに大店が「さっさと働け。毎日酒一合やってるだろう」とどやしつける。男は顔をあげるが、そのまま力を失い倒れる。これでまた人手なし。

困った大店は悪知恵を思いつく。男の両腕を切り落とすと酒一合を振りかける。すると生き返ったかのように腕が動き出す。薪割り、荷運びあっという間。喜んだ大店。ところが業の深さに変わりなし。大店は一合の酒もケチるようになる。少しずつ酒を薄める。

大店の店が長く開かない。あのケチがどうしたんだろうと近所の者が入っていくと、太い両腕に喉を締め上げられた大店。手近な紙には「酒をくれ」と。

 

こんな筋だった。鬼の腕とは酒で働く大男の腕のことだろう。ケチが極まって人手不足。渡りに船でやってきた助力にもケチる。挙句に殺される。昔話としてぞっとする。

しかしわたしが今、これを思うのは、本当に昔話なのかと。今の日本の労働市場も似たようなものに見えて仕方ない。

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読書評「スタンド・バイ・ミー(原題:The Body)」:映画と比較して冗長だが小説ならではの魅力は捨てがたい。特にラストの深い余韻

映画「スタンド・バイ・ミー」の原作小説。もともと本国アメリカで「Different Seasons」という中編集に収録された1話。

本エントリーは新潮社出版「スタンド・バイ・ミー -恐怖の四季 秋冬編-」による。

 

一行あらすじ

1960年代、12歳の4人の少年が同年代の少年の死体を見に線路沿いをいく青春小説

 

映画はリーダー格の少年を演じたリヴァー・フェニックスがとくに有名。わたしもつい先日、DVDで鑑賞した。自身の体験でもないのに懐かしいと感じさせる要素がいくつもあった。

まあ、ちょっと記憶違いの面もあったのは事実だけど。

 

cinochenus.hatenablog.jp

以下は映画版を受けた小説版のレビュー。映画版とは違う結末に映画鑑賞後の感傷と全く違う読後感を残す。

 

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懐かし映画「スタンド・バイ・ミー(1986年)」レビュー:あの頃の感性は繊細で美しく、もう元に戻らない

全く自分の経験にないことなのに、なぜか自分事のように懐かしさを感じる。そういう映画が世に何本かある。映画「スタンド・バイ・ミー(1986年)」はそういう映画の一つ。 

ステンバア、ミー

ソ、ダアリン、ダアリン

ステンバー、ミー

オウ、ステンバア、ミー

これがどこからか聞こえると、その瞬間、四人の少年が線路を歩く後ろ姿。なんだか切ない胸がキュッと握られるような、そういう感覚。

 

ひさびさに本棚のDVDを引っ張り出して鑑賞した。ああ、なるほどといろいろと思い返すことが様々。

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好きな弁当は誰も異論のないアレでしょう

今週のお題「好きなお弁当」ということだけど、それはもう誰も異論のやつ。好きな人が作ってくれたやつ。

私の場合だと妻だな。妻が詰めてくれた弁当が好きだ。

妻の手間と愛が入ってるからな。そりゃ、他と比べようもないじゃないか。中身が一緒で綾瀬はるかが作ってくれたとしても妻の弁当を選ぶ。

 

え、おかずのこと? それなら鶏の唐揚げ。茶色い弁当サイコー!

愛妻弁当も唐揚げ弁当もどっちも好き

ちなみに息子が好きな弁当は、パパだとゆかりおにぎり。ママだとなんだっけ? 彼女はその都度、キャラ弁に仕上げている。母は偉大よ。俺には無理だ。

「バカは嫌いです」宣言

わたしはバカが嫌いだ。

わたしが嫌うバカはどこにでもいる。

たまたまヒットした事業を持っているだけで提言という形で世の中をコントロールしようとする経営者。

特定の学問領域の特定の分野でたまたま業績を得たというだけで社会全体を俯瞰できるかのごとく発言する研究者。

たまたまその瞬間の選挙で得票したに過ぎないのに、まるで万能の白紙委任状を受けたがごとく政治を自在に使おうとする政治家。

 

バカは一つの尺度で万能の観測ができると勘違いする。資産、学歴、得票数、年齢、筋力、身長、酒量、エトセトラエトセトラ。それらはそれぞれ別のスコアに過ぎない。それで他を圧倒できると思うな。

バカは自分の欲望に忠実である一方で、他人を傷つけるに際して極めて鈍感である。

バカは自らの成功体験を一般化し、追随できないものたちを嘲笑する。できるわけがない。一部の行動パターンをなぞったところで条件が等しくなるわけではないのだから。

バカは自分の得意とするスコアで序列を決めて他を無視する。意図的であるか否かにかかわらず、自分こそが真理という態度でものをいう。

バカはデータを読まない。広いレイヤーを用いて観察できない。蜘蛛の糸のように手がかりを垂らしてみても、それをつかまない。つかんだとしても他人と分かち合うことができず転落する。

 

バカは無視すべし。

ネット黎明期はそういったものだが、あれは間違いだ。

バカは無視しても存在し続ける。バカの垂れ流すテキストは、その場面では最小にできるかもしれないが、バカは他でもバカを垂れ流し続け、社会を荒廃させていった。

 

そして今もそうだ。出版社もプロデューサーも分かっているのではないか。陰謀論ないしトンデモ論であることは。分かっていても稼げれば流すのか。ウソも百篇。言い続ければ真実のように装うことが出来ることを学んだバカは、さらにバカを重ねて同類を増やし続ける。

 

わたしは以上のようなバカが嫌いだ。

本当に嫌いだ。

せめてフォロワーは、まずバカと距離を取り観察してはどうか。

バカの主張の根拠を探り、あるいはバカの主張するテーマについて他の人の意見やデータを参照する。

そうして再確認する過程があってもいいのではないか。せめて快楽の中でとどめて外に出すな。知らぬ間に誰かを傷つけて、その片棒担ぎになっていたとしたら、あなたもバカになってしまうではないか。